つらい過去、眠れない、

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以下の解説は、幼少期から家庭環境などで大きなストレスやトラウマを経験してきた方が「従来は双極性障害と診断されるような症状」を示していた場合、近年では「複雑性PTSD(Complex PTSD)」と見なされることが増えてきているという文脈をふまえたものです。複雑性PTSDの理解には、近年注目されているポリヴェーガル理論(Polyvagal Theory)ソマティックエクスペリエンス(Somatic Experiencing)などの「身体感覚に着目する」理論が大きく貢献しています。ここでは、できるだけ専門用語をかみ砕きながら、症状のメカニズム、そして対処法や目指すべき方向性について解説していきます。

1. 複雑性PTSDとは何か

1-1. 双極性障害と複雑性PTSDの重なり

これまでは、幼少期から虐待やネグレクトなどの劣悪な家庭環境で育ち、感情が激しく上下したり、衝動的な行動をとったり、意欲が低下して落ち込んでしまったりすると、「双極性障害(躁うつ病)」と診断されることが多々ありました。しかし近年では、その背景にある長期的なトラウマ体験や、「常に身を守らねばならない」というサバイバルモードが続くことによる慢性的な自律神経の乱れに注目が集まっています。その結果、実は「複雑性PTSD」として理解したほうが当事者の体験に合致するのではないか、という見方が広がってきました。

1-2. 複雑性PTSDの特徴

複雑性PTSDは、ICD-11(国際疾病分類第11版)にも新たに追加された概念です。典型的なPTSDが「特定の強いショッキングな出来事(事故や災害、犯罪被害など)」をきっかけに起こるのに対し、複雑性PTSDは“長期にわたる、あるいは繰り返される対人トラウマ”によって生じるとされます。具体的には以下の特徴が含まれることが多いです。

– 自己感覚の混乱:自分は価値がない、汚れている、恥ずかしい存在だ…といった根強い思い込み
– 対人関係の困難:他者を過度に恐れたり、逆に過剰に依存してしまったり、安定した関係が築きにくい
– 感情調整の困難:感情が一気に高まってコントロールが効かなくなったり、逆にまったく感情が感じられなくなるような極端さがある

これらが、幼少期からの継続的な心的外傷体験によって形成されると考えられており、結果として強いうつ状態や、躁的とも見える衝動性・過活動などが起こるために、双極性障害との鑑別が難しくなる場合があるのです。

2. ポリヴェーガル理論が示す「自律神経の安全・警戒システム」

2-1. ポリヴェーガル理論とは

ポリヴェーガル理論は、アメリカの神経科学者スティーブン・ポージェス(Stephen Porges)によって提唱された理論です。簡単に言えば、人間の自律神経は「安全」か「危険」かを常に評価し、それに応じて身体や心の状態を変化させているというものです。

従来、自律神経には交感神経と副交感神経があるという二分論が一般的でした。しかし、ポリヴェーガル理論では「副交感神経」の中にも異なる経路が存在し、それによって「身を守るモード」や「リラックスして社会交流に適したモード」が切り替わるとされます。

1. 腹側迷走神経(Ventrovagal):いわゆる“安全な状態”や“社会交流モード”を司る。安心感や落ち着き、他者とのつながりを感じられる
2. 交感神経(Sympathetic):アクティブに行動するためのシステム。過剰に働くと「闘争・逃走反応(Fight/Flight)」が起きる
3. 背側迷走神経(Dorsovagal):極度の危険を感じたときに起こる“フリーズ状態”や“シャットダウン”を司る。エネルギーを最低限に落として生き延びるための反応

2-2. トラウマと自律神経の関連

幼少期からの虐待やネグレクトなどを受けた方は、常に自分の身が脅かされる環境で生き延びる必要がありました。そのために、身体が常時「交感神経優位(闘争・逃走モード)」になっていたり、限界を超えたときには「背側迷走神経優位(フリーズ・シャットダウンモード)」になりやすくなったりします。

緊張状態が続く/不眠など:身を守るため交感神経が過度に働き、落ち着けない・眠れない・常に警戒心が強い
無気力や解離症状:過剰なストレスに耐えきれず、背側迷走神経が作動して心身の動きを抑制し、まるで何も感じられないような状態になる

これが、「一時的にハイな状態(交感神経優位)」と「極度に沈み込んだ状態(背側迷走神経優位)」を行き来する原因ともなり、いわゆる“双極的”な様相を示すことがあります。しかし、根本的には「過去に身を守らなければならなかった防衛反応」が繰り返し作動してしまっている状態と言えます。

3. ソマティックエクスペリエンスによる身体ベースの理解

3-1. ソマティックエクスペリエンスとは

ソマティックエクスペリエンス(Somatic Experiencing, SE)は、ピーター・リヴァイン(Peter Levine)によって開発されたトラウマ療法です。伝統的な「言語中心のカウンセリング」とは違い、身体感覚に意識を向け、身体が抱える緊張や興奮状態を少しずつ解放していくというアプローチを取ります。

トラウマ体験を受けた身体は、本来ならば危機が過ぎた後に自然と解除されるべき防衛エネルギーが、“未完了”のまま蓄積されていると考えられます。動物は危険を逃れたあと、「ブルブルと震える」などして不要な興奮を身体から解放しますが、人間は社会的にそれを抑え込むことが多く、“興奮エネルギー”が行き場を失ってしまうのです。

3-2. 身体感覚に基づくトラウマ解放

ソマティックエクスペリエンスでは、セラピストのガイドのもとで次のようなプロセスを行います。

1. 身体の感覚を安全な範囲で“観察”する:まずは「胸が締め付けられる感じ」「手足がジンジンする感じ」といった、今ここで起こっている身体感覚を微細に捉えます。
2. 少しずつ「安全な場所」と「不快な感覚」を行き来する:不快な感覚に一気に沈み込むと再トラウマ化のリスクがあるため、身体が安心できる感覚(ほっとする感覚)と行ったり来たりを繰り返しながら、少しずつ余剰なエネルギーを解放していきます。
3. 完了と統合:身体が「あ、もう危険は去ったんだ」という安心感を学習していくと、自然と身体内部で震えが起きたり、涙が出たり、呼吸が深まったりすることがあります。これらはトラウマによって滞っていたエネルギーが解放されているサインとみなされます。

ソマティックエクスペリエンスの特徴は、言葉で説明しきれないほど細やかな身体の信号を捉え、それを少しずつ開放していくことで、自律神経系の過剰な警戒状態を解除し、バランスを取り戻すことを目指す点にあります。

4. なぜ緊張や不眠が続くのか:メカニズムのまとめ

上記のポリヴェーガル理論とソマティックエクスペリエンスの視点を総合すると、以下のように理解できます。

1. 幼少期のトラウマ体験
– 周囲の大人からの暴力、言葉の暴力、ネグレクトなど、慢性的な危険状態を経験する。

2. 身を守るための神経系の“過覚醒”
– 常時、闘争・逃走反応がオンになりやすい(交感神経過剰)。あるいは圧倒されてフリーズする(背側迷走神経過剰)。
– その結果、緊張状態が続き、不眠や過剰な警戒、不安などが慢性化。

3. 身体に蓄積された“未完了の防衛エネルギー”
– 子ども時代には逃げ場がなく、「闘う」こともできず、「震える」ことも許されず、感情も身体の反応も抑え込んできた。
– そのエネルギーが解放されないまま大人になり、些細なきっかけでも過去の恐怖がフラッシュバックしたり、自律神経が乱れたりする。

4. 複雑性PTSDとしての症状
– 感情が極端に上下したり、人間関係に大きな困難を抱えたり、自分自身を見失ったりする。
– 過去のトラウマ体験を回避しようとすると、症状がより強まる場合も。

5. 対処法:身体感覚を取り戻し、安全を作る

5-1. 自律神経を整えるアプローチ

呼吸法・グラウンディング
ポリヴェーガル理論においても、呼吸の練習は副交感神経(特に腹側迷走神経)を活性化する手段として有効とされています。腹式呼吸やゆっくりした呼吸を意識してみる、足の裏の感覚や床の接触を感じるなど、まずは「今ここにいる」感覚を戻すためのグラウンディングは有用です。

安全な身体の動きや揺れ
トラウマがあると体の動きが固まりやすいのですが、あえてリズミカルに身体を揺らすと、神経系が落ち着くことがあります。セルフケアとしては、心地よい音楽に合わせてゆったり動く、ゆっくりとしたストレッチを行うなども良いでしょう。

5-2. ソマティックエクスペリエンスや身体志向セラピー

専門家のサポート
トラウマを扱う際は、再トラウマ化を避けるためにも、安全な場で専門的に学んだセラピストのサポートを受けることが重要です。ソマティックエクスペリエンス以外にも、感情と身体の両面を扱うセラピー(感情焦点化療法、Sensorimotor Psychotherapyなど)があります。

小さなステップで「安全」から始める
無理に過去の体験を詳しく言葉にしようとするのではなく、まずは「ここにいても大丈夫」という感覚を身体レベルで少しずつ積み重ねることが大切です。自分の心地よい姿勢や呼吸を感じるなど、小さな成功体験を重ねることが神経系を落ち着かせる鍵になります。

5-3. 日常生活の工夫

生活リズムの安定
不眠が続くときは、いきなり完璧な睡眠を求めず「少しでも横になって休む」時間を確保してみる、寝る前のスマホや刺激物を控える、寝る前に暖かい飲み物を飲むなど、細やかな工夫で自律神経を整えます。

サポートネットワーク作り
自分が安全だと感じられる友人・家族・支援者を見つけ、「少し苦しいときに話せる相手」を確保しておくことは、腹側迷走神経システムを活性化(社会的交流と安心感)させるうえで非常に重要です。カウンセリングやピアサポートグループなどを活用するのも一つの方法です。

薬物療法との併用
場合によっては、抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬などが補助的に役立つこともあります。ただし、トラウマや身体症状を根本から癒すためには心理的・身体的なアプローチが不可欠であり、薬だけで解決を目指すのは難しい場合が多いです。

6. 目指すべき方向性:安全・自己理解・つながり

6-1. 「安全な状態」を体で感じられること

ポリヴェーガル理論が示すように、私たちは身体が「今は危険ではない」「ここは安全だ」と感じられない限り、心が落ち着いたり他者と建設的につながったりしにくいものです。日常生活の中で少しずつでも「ホッとできる時間」や「安心して呼吸できる場所」を増やしていくことが回復の第一歩です。

6-2. 自己理解とセルフ・コンパッション

幼少期からのトラウマを経験すると、自分に対して厳しい目を向けてしまい、自分を責めたり低く評価したりしがちです。ですが、「子どもの頃に必要なケアが受けられず、やむを得ず身を守るための反応をしてきた」と理解することはとても大切です。これは弱さではなく、当時はそれが生存戦略でした。自己批判ではなく、少しでも「仕方なかったよね」「よく生き延びてきたね」とセルフ・コンパッション(自己への思いやり)を持つことが回復に大きく寄与します。

6-3. 他者とのつながり:安全な関係を育む

複雑性PTSDの回復過程では、過去のつらい体験の中で形成された「他者は恐ろしい存在」という認識を緩めていくことも重要です。もちろん、すべての人を無条件に信用する必要はありませんし、信頼できない環境で無防備になるのは危険です。しかし、少しずつでも「安心して話せる相手」とのつながりを築いていくことは、トラウマから回復する大きな助けになります。安心できるセラピストとの関係性も、その一例です。

6-4. トラウマの記憶を「今の自分」に統合する

トラウマの傷はすぐに消え去るものではありません。むしろ、「過去にこういう出来事があった、でもそれはもう過去のことで、いま自分はここに生きている」という実感を少しずつ積み重ねることが大切です。ポリヴェーガル理論やソマティックエクスペリエンスによって身体的な安全を取り戻していくと、過去の記憶がもはや今の自分を支配しなくなり、「自分自身の人生を歩める」という感覚が芽生えてきます。

7. まとめ

幼少期から劣悪な家庭環境で育ち、常に身を守らねばならない状態が続くと、脳と身体の防衛システムが常時フル稼働し、過剰な緊張や不眠、感情の激しい起伏などが起こりやすくなります。従来は双極性障害とみなされていたような症状でも、実は慢性的なトラウマ体験による複雑性PTSDの可能性があるのです。

ポリヴェーガル理論では、「安全・警戒・フリーズ」などのモードを切り替える自律神経の働きが、トラウマによって過敏になっていることを説明します。
ソマティックエクスペリエンスは、その自律神経の過覚醒を身体レベルで少しずつ解放し、「今は安全だ」と身体が理解する状態を作り出すアプローチです。

回復の鍵は、まず「自分の状態を安全に感じられる時間と空間」を確保し、身体の声に耳を傾けること。そして、少しずつ自己理解やセルフ・コンパッションを深め、信頼できる他者との関係性を育むことです。過去の経験は変えられませんが、それを抱えながらも「いまここでの安全」を感じられるようになると、緊張や不眠、対人関係の困難などの症状が徐々に軽減していく可能性が高まります。

大切なのは、「自分はおかしいのではなく、身を守るためにこうした反応が起きているのだ」と理解すること。 そして、必要があれば専門的なセラピーや医療、サポートネットワークを活用しながら、「ああ、もう戦わなくても大丈夫なんだ」「心から休める場所があるんだ」という実感を身体と心の両面で取り戻していくことが、長期的な回復への道となります。

以上が、ポリヴェーガル理論やソマティックエクスペリエンスの観点から見た、幼少期の複雑なトラウマに起因する症状のメカニズムと対処・回復の方向性に関する概説です。もし当事者として「自分自身がそうかもしれない」と感じたり、「回復に向けて何をしたらいいのか分からない」と感じる場合には、まずは安心できる専門家や支援機関に相談し、身体を含めた総合的なケアの手段を探ってみてください。あなたが安全を取り戻し、より穏やかに生きられる道はきっと存在します。