episode1
テレビには、所々に赤瓦を残すもほとんどが黒い残骸となった光景が映っている。
窓からアクロポリスが見えるホテルの部屋で、まさかこのようなニュースを目にすることになろうとは全くもって想像だにしなかった。
振り返ると、今月は本当に忙しかった。中でも当直の際のひきっぷりがすごかった。外勤含めその月は8回の当直があったが、常勤先として務める施設の当直が4回あり、うち3回で産褥の大量出血の搬送を受けた。産褥の出血で搬送となることはよくあるが、対応はある程度決まってくる。バイタルを確認し、出血の程度を確認する。貧血や凝固の程度に応じて輸血をオーダーしつつ、平行して診察所見で縫合なり圧迫するなりバルーンを入れるなりで止血を図る。吹いている出血がないか造影C Tも確認し、血管外に吹いていれば放射線科医へIVRを依頼する。そしてDICやHDP、HELLPなどの産科合併症に応じて薬物療法を開始する。緊急の対応が必要なのは間違いないが、対応はある程度決まっている。
しかし先週の出血は焦らされた。夜のちょうど1時頃だろうか。寝付けたかどうかくらいの、よくある時間の電話で起こされる。「今日もこのコースか」なんて思いながら、初めはERに降りながら「もう止まっているといいな」なんて楽観的なことを思いながら降りていく。前情報も産褥の出血多いというのみで、その他にショックやDIC、HELLPなどのフレーズはない。救急車来ました〜という声が聞こえ処置ベッドに向かう。なんだか顔色が悪く蒼白だが、受け答えは何とかできる。血圧はやや低めだが、まずは出血の確認をしていこうと考える。しかし出血の確認のために詰められたガーゼを抜いていくと、スイッチが入る。サーっと腟内に鮮血がたまる。拭っても拭ってもすぐにたまる。本物かあ。応援の医師にも伝え、輸血を未交差でおろしてもらい、バルーンを準備する。止まらない。何かでみた癒着胎盤の出血しやすいとこをしっかりバルーンで圧迫出来ていることをエコーで確認、見えない裂傷を疑い腟部を全周性に頚リス鉗子で把持しさらにガーゼを詰めて、予め声をかけていた放射線科医へ連絡する。しかしIVRの準備をしているうちに収縮期血圧が50台まで下がる。血液検査の結果は著明な貧血に加え、凝固は全て振り切っているとの結果。外陰部のタオルを避けると、そこにはガーゼを乗り越えてきた出血が滴る。間に合わない。「とろう」。麻酔科医に連絡しつつ、冷えた輸血パックを握り締め、移動の準備をしながら朦朧とした意識の女性に説明する。理解しているはずはないし、判断できるはずもないが、一応の決まりとして耳元で大きめの声で話す。反応はうめき声だけだ。手術室に着くまでに何パックかの冷えた血液が入ったからか、ショックバイタルではあるものの血圧はやや改善していた。すぐに全身麻酔導入し開腹、腹腔内には出血はない。子宮底部はそれなりに収縮もしっかりしている。だが出血確認のために開脚位としていた股からは床に向かって依然血液が滴り、床に血だまりを形成していると。妊娠子宮の摘出は血管も怒張し出血もしやすいが、分娩直後の場合は周囲の靭帯は伸びやすく、個人的には手術操作自体はしやすい印象だ。型通りに進め、子宮へ流入する血管を処理する、血圧は維持出来ている。助かった。子宮摘出する場合、本来であれば卵巣癌予防のため併せて両側の卵管を摘出した方が良いが、予めそんな説明する状況ではないし、そのような状態でもないためそのまま閉じる。腟内の出血がないこと確認し終了する。
そのまま寝不足の身体でタクシーに乗り空港に向かい、飛行機を乗り継ぎ、ヨーロッパの地に降り着いた。アテネの街はどちらかというと汚れた車がそこら中を走り、運転は荒く、それはそれでヨーロッパの端っこの方に来たという感じがしてワクワクした。アテネの街の先、エアーズロックを思わせるような高台の上にそびえ立つライトアップされたアクロポリスは、歴史を感じさせる以上に、ただただ美しかった。