トラウマ、とは。

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トラウマ(心理的外傷)は、個人が非常に強い恐怖や無力感、ショックを感じる出来事を経験した後、その影響が長期間にわたって心身に残る状態を指します。現代の精神医学では、トラウマに対する理解が進み、さまざまな分類や病態、治療法が発展してきました。ここでは、トラウマの最新の分類、Adverse Childhood Experiences(ACEs: 逆境的子ども時代の経験)、トラウマが被害者だけでなく加害者にも影響する点、単回性トラウマと複雑性トラウマ、その症状、病態生理、治療法について解説し、精神科医療における実際のトラウマ治療にも触れます。

1. トラウマの分類とACEs

トラウマは、主に「単回性トラウマ」と「複雑性トラウマ」に分けられます。

– 単回性トラウマ: これは、交通事故や自然災害、犯罪被害といった、一度限りのショッキングな出来事が原因となるものです。単発的であるものの、その影響は深刻で、特にその出来事の衝撃が強い場合、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こすことがあります。

– 複雑性トラウマ: 長期間にわたる反復的なトラウマ体験によって引き起こされます。特に、虐待や家庭内暴力、ネグレクトなど、幼少期から持続する逆境経験は、後に心身の発達に深刻な影響を与えることがあります。このようなトラウマは、複雑性PTSDと呼ばれる特有の精神障害につながることが多いです。

トラウマに関連してよく言及される概念として「ACEs(逆境的子ども時代の経験)」があります。ACEsは、次のような逆境を指します:

- 身体的虐待、性的虐待、感情的虐待
- 家庭内暴力
- 親の薬物依存やアルコール依存
- 親の離婚
- 家庭内での精神疾患の存在

研究によれば、ACEsの数が増えるほど、成人後の身体的・精神的健康への悪影響のリスクが高まります。たとえば、ACEsを多く経験した人々は、うつ病、アルコール依存症、心疾患、慢性疼痛など、さまざまな健康問題にかかりやすいことが知られています。したがって、トラウマの評価には、幼少期の経験も重要な要素となります。

2. 加害性トラウマ

医療現場において、医療従事者が結果的に患者の死に関与してしまった場合、加害性トラウマが起こり得ます。これは、手術や治療の過程でミスが発生したり、予期しない結果により患者の生命が失われた場合に、医療従事者が強い罪悪感や無力感、自己否定を感じる状態です。こうした状況では、「自分が加害者となってしまった」という意識が深刻な心理的影響を与え、後にトラウマとして残ることがあります。

この現象はセカンド・ヴィクティム(第二の被害者)とも呼ばれ、医療事故やミスに関与した医療従事者が、心理的に大きなダメージを受けることがあるとされています。これには、激しいストレスや不安、不眠、うつ状態が含まれ、最悪の場合、医療現場を離れるケースもあります。セカンド・ヴィクティムは、倫理的責任感の強い医師や看護師ほど深刻に感じやすいとされています。

他の例としては、例えば、戦闘警察活動において人を傷つけたり、死に至らせたりした兵士や警官が、自分の行為に対して強い罪悪感を抱くケースもあります。これらはPTSDの一種である「道徳的傷害(Moral Injury)」として分類され、加害行為によるトラウマを引き起こす要因となります。

加害性トラウマは、加害行為自体が意図的か否かにかかわらず、個人の道徳感や責任感に大きな影響を与えます。そのため、こうしたトラウマに対しても、適切な心理的支援やケアが不可欠です。

3. PTSDと複雑性PTSD

PTSDは、重大なトラウマ体験に直面した後に発症する精神障害です。症状は以下のように分類されます。

- 再体験症状: トラウマとなった出来事がフラッシュバックや悪夢として繰り返し蘇る。
- 回避行動: トラウマに関連する場所、人物、状況を避ける。
- 過覚醒症状: 常に緊張し、過剰に警戒している状態。不眠やイライラ、集中力の低下が見られる。
- 否定的な認知や感情の変化: 自己否定感や無価値感、他者への不信感、抑うつ感など。

一方、複雑性PTSD(C-PTSD)は、特に長期にわたる反復的なトラウマに関連して発症します。典型的な症状は、通常のPTSD症状に加えて、以下の特徴があります:

- 感情調整の困難: 急激な気分の変動や怒りの爆発、慢性的な空虚感が見られる。
- 対人関係の問題: 他者との関係を築くのが難しく、極端な依存や逆に過度の孤立が起こりやすい。
- 自己認識の変化: 自分自身を嫌悪し、無価値だと感じる。自罰的な思考が強い。
- 持続する無力感や絶望感: トラウマが自分の人生を支配しているという感覚が持続する。

4. トラウマの病態生理

トラウマが脳と身体に与える影響は、神経生物学的なメカニズムでも解明されています。トラウマを経験すると、脳のストレス反応システムである視床下部-下垂体-副腎系(HPA軸)が過度に活性化します。この結果、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌が増加し、長期間にわたる過剰なストレス反応が引き起こされます。

また、トラウマは脳の構造や機能にも影響を及ぼします。特に以下の部位に顕著な変化が見られます:

- 扁桃体: 感情、とくに恐怖や不安の処理に関与。トラウマによって過敏化し、過剰な不安反応を引き起こす。
- 海馬: 記憶の形成と整理に関与。トラウマが原因で萎縮し、トラウマに関連した記憶の断片化や再体験の原因となる。
- 前頭前野: 感情制御や意思決定に関与。トラウマ後には前頭前野の機能が低下し、衝動的な行動や感情の調整困難が生じやすくなる。

5. トラウマ治療の選択肢

トラウマに対する治療には、大きく分けて心理療法薬物療法があります。どちらも有効ですが、患者の症状や背景に応じて選択されるべきです。

5.1 心理療法

心理療法は、トラウマ治療において重要な役割を果たします。以下のような方法が一般的です:

– 認知行動療法(CBT): トラウマに対する認知の歪みを修正し、感情と行動のパターンを改善する療法です。特にトラウマフォーカスドCBTは、PTSD治療に効果があるとされています。
– EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法): トラウマに関連する記憶を再処理することで、感情的な苦痛を和らげる治療法です。左右に目を動かしながら、トラウマに関連する記憶を思い出すことで、脳の自然治癒力を引き出すとされています。
– 内観療法や心的外傷治療のための表現療法: アートや音楽、身体的な活動を通じて、トラウマ体験を言語化しにくい患者にも効果をもたらします。

5.2 薬物療法

薬物療法は、特に症状が強い場合や、心理療法だけでは効果が十分でない場合に用いられます。以下の薬が使用されることが多いです:

– SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬): パロキセチンやセルトラリンなど、PTSDに対する標準的な治療薬です。感情の安定や不安症状の軽減に効果があります。
– 抗不安薬や睡眠薬: 睡眠障害や強い不安がある場合に一時的に使用されることがありますが、依存のリスクがあるため長期的な使用は推奨されません。
– 抗精神病薬: 精神病的な症状が伴う場合や、感情の調整が特に困難な場合に使用されることがあります。

6. 心理療法と薬物療法の効果比較

心理療法と薬物療法はどちらもトラウマ治療に有効ですが、それぞれに利点と限界があります。心理療法は、根本的な問題にアプローチし、長期的な改善が期待できますが、効果が現れるまでに時間がかかることがあります。一方、薬物療法は比較的早く症状を緩和しますが、薬だけではトラウマの根本的な治療にはつながりにくいです。

理想的には、心理療法と薬物療法を併用することが最も効果的です。

薬物療法で症状を安定させつつ、心理療法でトラウマの処理を行うアプローチが、治療効果を最大化します。

7. 精神科医療におけるトラウマ治療の実際

実際の臨床現場では、トラウマ治療は多職種連携が重要です。精神科医だけでなく、心理士、看護師、作業療法士などがチームとして患者にアプローチします。

– 初期評価: トラウマ歴やACEsの有無、現在の症状を詳細に評価し、適切な治療計画を立てます。
– 心理療法と薬物療法の併用: 患者の症状やニーズに応じて、心理療法と薬物療法を組み合わせます。特にC-PTSD患者には長期的なフォローが必要です。
– 支援ネットワークの構築: トラウマ治療は一人で行うものではなく、家族や社会的支援が重要です。患者のサポートシステムを強化するために、家族療法や地域の支援団体との連携も行われます。

結論

トラウマ治療は、個々の患者に合わせた多面的なアプローチが求められます。
最新の研究に基づいた心理療法や薬物療法の選択肢が豊富に存在し、患者の症状や背景に応じて柔軟に対応することが重要です。